こんにちは、デリコです。^^
今日は、私の家族の話で、継母である「おかあさん」との関係についてお話してみたいと思います。
世の中には、継母とうまくいってるいい話なんて本当にあるのか?って疑っているような人もたくさんいるみたいですね。悲しいことです。
確かに「血がつながらない他人同士」なのでそういうことがあるのかもしれません。
でも、本当に珍しい話なのでしょうか?
私の場合は、継母を筆頭に、血が繋がっていない家族ともうまくやっていて、それが自分でもとても幸せで心地よい暮らしに繋がっています。
むしろ、実際に血のつながった家族よりも仲が良いかもしれません(苦笑
我が家の場合をお話して、そんな関係性もあるんだなぁと思っていただいて何かの役に立ててもらえたらと思います。
父の再婚は私の実母の死後7年後だった
母が51歳で他界した際に、父はまだ50歳になったばかり。今の私の年齢でした。
女は精神的にも強いので、割と1人でやっていけるのかもしれませんが、男性は違います。
私は、母の死後、しばらくしてからずっと
お父さん、再婚したかったらしていいからね。むしろ再婚してね。^^
とずっとクギを指してました(笑
弟が先に結婚していたので、
このまま父が独り身では、私が結婚できないではないの~
と思ってましたからね。
なので、父の再婚には大賛成でした。
そんな私に叔母は
デリコちゃん、お父さん再婚していいの?
なんてイヤじゃないの?と言わんばかりの質問をしてきたことを今も覚えています。(叔母は実家のお嫁さんで苦労してました(汗)
そんな私の願いをきちんと聞いてくれたかどうかはいいとして、父は見事に実母の7回忌が終わった後、再婚を果たしてくれました。
しかもちょっとだけ(9歳年下)の奥さんです。かわいらしい、お父さんタイプだったんだね~って感じのとても素敵な女性でした。
その当時、私は都内でひとり暮らししていました。私があえて、父を残して一人暮らしをさせてもらったのは、ある意味作戦でした。寂しい想いをしないと再婚しようと思わないと思ったからです。(なんて娘だw)でも、これ効果あったと思います。^^
父の再婚と弟の結婚が重なった
そしてそんなタイミングで弟もまもなく結婚になりました。
もともと、二世帯にすることを念頭において、3階建ての実家は、一階に両親が生活し、3階に私たち姉弟、2階に台所やお風呂場など共用スペースがありました。
結婚後、弟は最初家を出るものと誰もが思っていたんですが、実家に住まわせて欲しい、となったらしく(汗 急きょ、完全二世帯にしなければならなくなりました。
継母の強い希望があって「台所を弟夫婦と分ける」ことになったからです。
継母は、自分がお姑さんの面倒を最期まで看て、大変苦労しているのでどうしても台所をお嫁さんと共有するのが嫌だったようです。
まだ再婚して間もなかった父は、その願いを聞き入れ「いずれ二世帯にするつもりだったんだから」とお風呂場も作って、将来、老夫婦が生活できるようにリフォームしたわけです。
1人で暮らしていた私には、口出しする権利などないし「どうぞご自由に」という感じでした。
それに関しては、特に何も思わなかったというのが正直なところです。
まだ独り身で若かったし、そこにお金がたくさんかかることとか、そういう大変さをわかっていなかったころでしたね(汗
弟はすぐ離婚となり私は結婚前は実家へ戻った
せっかく二世帯にしたにもかかわらず、弟は、結婚後2年あまりで離婚してしまいました。残念なことでしたが、こればっかりは夫婦のことですから大人ですし、口出しはできませんでした。
その後に、私はいろいろあって一人暮らしを辞めて、実家へ戻りました。
小さい制作会社でウェブデザイナーとして働いていたころで、毎日帰宅は終電を使って帰っていました。
継母は、そんな私の分の夕飯も作っておいてくれて、それを帰宅後ひとりで温め直して食べる、ということをしばらくしていました。本当にありがたかったです。
これは、母がもう自分たちでやってね、という希望を話してくれるまで、2年くらい続いたと思います。(要は甘えてました(汗)
これまでがありがたすぎる話だったので、母の希望を聞いた時は、「全然オッケー!自分でやるね~」と快く受け入れました。
それからは、結婚して家を出るまで、自炊の毎日が始まりました(笑 もう30歳過ぎてましたから、遅すぎですよね(苦笑 逆にこの時間は私に必要だったと思います。
実家に住まわせてもらっていたので、月に光熱費の4万円ほど入れるだけで暮らせましたから。
継母との二世帯生活は数年続いた
そして、継母を迎え入れての親と子の二世帯生活は私が結婚して家を出るまで数年続きました。
実母を早くに亡くした私にとってはひょんなきっかけで母ができて、いろいろ話ができる相手ができました。
実母じゃない分、気を使ってくれたところがたくさんありました。
私もそうです。実母だったらズケズケと遠慮なく言って、ケンカになってたかもしれないところがそうならずに済んだのは継母のおかげだと思ってます。
結婚してアメリカに渡るまで、継母とはいろいろな話ができ、今では本当の母と変わりなく、絆は深いです。^^
血のつながりがないのに絆ができた理由
自分で言うのはおこがましいですが、継母と家族として親子としての絆ができた根底には「思いやり」の精神があります。
人として必要なことで、家族にだからこそ、気を使っていかなければならない精神なのかな、って思います。
思いやりって、「相手の気持ちを思いやる(考える、想像する)」ってことですからね。
何を言うにも、やるにも自分が嫌なことはやらない、それが私の中の「思いやりの定義」です。
もちろん、どちらか一方だけが思いやりがあるだけではダメで、両者が思いやりがあればこそです。
どちらかが諦めなければ、時間がかかっても必ず心は通じると私は信じています。
絆を感じた出来事
2019年に子宮頸がんになった時にも、一番最初に報告したのは継母である「お母さん」にでした。
もうアメリカに来る前から、私は彼女のことを普通に「おかあさん」と呼んでいます。
私は、生涯でふたりの母に恵まれたことになりますね。^^ラッキーです。
子宮頸がんのことは、勤めて笑って報告した私でしたが、継母は、報告のLINE電話の最後、別れ際の通話を切る時に「ごめんね・・・」と言いながら心配のあまり泣いてました。
夫である父を亡くした後に、自分より先にまさか娘ががんになるとは思いもよらなかったのでしょう。
でも
必ず治るから大丈夫よ。心配かけてごめんね。
そう伝えて、それ以降、継母は電話口で泣くことはなくなりました。
私が治療中電話できずにいた時も、私からの連絡をじっと待っていてくれました。心配で仕方なかったと思います。実際には。
治療後、私がようやく話ができるようになった時に一番に連絡したのも継母でした。
いつでもどんな時でも自分の味方だと信じられるのが家族の絆なのかな、と思います。
離れていても、心が繋がっている家族がいればよく、血が繋がっているいないは関係ありませんね。
教訓:血がつながらない家族関係がうまくいかないのはお互いさま
ちょっと厳しい言い方になってしまいますが、相手を思いやる気持ちがあれば言わないこと、やらないことってあると思うんです。
それはみんな「心」ではちゃんとわかっていて、わからない人は誰一人としていません。理由は、自分がやられたり言われたらイヤなことだからです。
それでも、敢えて「苦言を呈する」という大義名分を使って、相手を批判したり避難したりしてしまうのです。この世はそんなもので満ち満ちています。
苦言や批判は、確かに必要な場面もあるかもしれません。
それでも私は自分が言われて嫌なことは極力言わないようにしたいし、やらないようにしたいと常に思って生きています。
もし、あなたが何かうまくいっていない人間関係があるとしたら、まずは自分が何か相手が嫌だと思うことを普段から言ってないか? やっていないか? 振り返ってみるといいですね。
どちらが悪いとかではなく、うまくいかない人間関係は、必ず「お互いさま」の部分がたくさんあるはずです。
そして、相手が変わらないことに執着するよりも「自分が変わること」の方がよっぽど早いということに気が付きます。
不思議と自分が変われば、周りが変わってくるんですね。騙されたと思って(笑 やってみてください。おススメです。^^